白昼
ソーダアイスの弾けない感じが好き。
見るからに気の抜けた、ミズイロ。
質素、というか。簡素、というか。どちらにしても、“すぎる”とあまりに無機質だ。灰色ではなく白のイメージ。一個離れた、現実みたいに。
だだっぴろい部屋には、ベッドと冷蔵庫とテレビと小さなキッチンと。およそ生活感のないこだわりのなさが、彼の生活感で。まるで昨日今日でここに引っ越してきたみたいに、よそよそしい空気が漂う部屋の中。どこのブランドともしれない黒色のTシャツとジーパンという、部屋に違わずやる気のない格好で、桐藤(きりとう)は眠っていた。
大きなベッドでうつ伏せになって。この眠りが誰にも邪魔されないと、なんにも疑わないで、静かに寝息を立てている。
人と目を合わせるのが苦手だからと伸ばしたらしい前髪が、窓から入り込んだ風で無防備に揺れた。
部屋の隅に、所在なさげに置かれた冷蔵庫は、わたしの身長の半分より少し高いぐらいの大きさしかなくて。中身は、賞味期限ギリギリの牛乳とミネラルウォーターと卵とトマト、冷凍庫にはソーダアイスがたったの二本。不健康にすぎるラインナップだ。
わたしは冷凍庫からソーダアイスを二本とも抜き取ると、そろそろと、眠る彼の傍へと歩いていった。
もしかしたら、ものすごく幸せな夢を見ている最中だったらどうしようかと思ったけれど、「夢の中の幸せなんていらないよ。来たならちゃんと起こして」と、眠そうな口調で言った彼の言葉を思い出して。ソーダアイスをゆっくりとその頬にあてがった。
一瞬、肩をビクリとさせた彼は、顔をしかめながら無意識に頬をさすった。瞳がとろとろと開く。焦点の定まらない視線で、それでもわたしを見止めて。「あぁ、来たんだ」とどこか安堵したような表情をした。
ソーダアイスを目の前にちらつかせると、大きな欠伸をしながら、まだ眠りかけの腕を伸ばして受け取った。
そして、むくりと起き上がると、太陽光に彩られた白色のカーテンを眩しそうにぼんやりと見つめる。ぐっと伸びをしながら、もう一つ欠伸。髪の毛をわしゃわしゃとしながら、ベッドから脚を下ろして。おぼつかない足取りで部屋の端。壁にもたれてずるずると座り込んだ。
ソーダアイスの袋を破る音。
わたしも、彼の隣に座って、アイスを口に含んだ。
コトリ、と彼の頭がわたしの肩に寄りかかる。まだ、夢から覚める途中。ぼんやりのままで。シャクリ、シャクリとアイスを齧っている。
欠伸を、かみ殺して。ふと、桐藤が呟いた。
「もう来ないかと思った」
心地よく響く、掠れ気味の、低音。
桐藤につられて、わたしもまだ、夢の続きにいるみたいな気分で、ぼんやりと彼の方へと首を傾げた。
「どうして?」
「そういう夢だったから」
「夢?」
「そう。だから俺は焦って、ソーダアイス買いに行こうとすんの」
ふにゃりとしたままの空気で、桐藤がおかしそうに笑った。
そして、わたしの肩から頭を起こす。
「なのに、ドアも窓も開かない。」
「閉じ込められちゃったんだ」
「そう」
彼は頷いて、いつの間にか食べ終わったアイスの棒を、ゴミ箱に投げ入れた。カラン、と乾いた音が聞こえた。ゴミ箱は、空だったらしい。
わたしのアイスは溶け始めていて。棒を伝って、冷たいのが。指にとろりと辿り着いた。
「わっ、ヤバッ」
たぶん、夢の中の桐藤くらいには慌てて。中途半端に棒の真ん中に残ったアイスを食べきる。一気に口に入れたせいか、キン、とこめかみが痛んで。思わず顔をしかめたら、桐藤に笑われた。
「変な顔、って思ったでしょ」
「思ってないよ」
なんでもない風に桐藤は言って、わたしの片手首をおもむろに掴まえる。
アイスが溶けた、指。
ゆっくりと、口付けて。
「甘い。」
と、言った。
黒髪の合間から、猫みたいな瞳がわたしを見上げた。
心のずっと奥まで覗き込むような、深い色。桐藤は時々こうして、何かを確かめるようにわたしを見つめる。
その度に、わたしは息を飲んで。桐藤に見透かされたくない、真っ黒な、意地の悪い気持ちや残酷な気持ちを心のずっとずっとずっと。絶対に桐藤には届かないような場所へと押し込める。硬直した時間。心臓の音がやけに高く響く気がして。なけなしの綺麗な感情を、わたしは必死にかき集める。
桐藤の怖いところ。
は、わたしなんかには到底辿り着けない深い感情と思慮を持っているところで。
このスイッチを押せば、桐藤に気に入ってもらえるだとか。このスイッチを押せば桐藤に嫌われるだとかの判別が微塵もつかない。
わたしはいつだって、わたしのままで。わたしのままでいるしかなくて。
スイッチのある恋愛しか経験のないわたしに、この恋愛はあまりにも不安定で無防備で。
いつかふっと桐藤に棄てられる時が来るのだとしても、ほんのわずかも繕える術を持っていない。繋ぎ止める術も見つからないまま、手放されてしまうのだろうという予感がしていた。
「ねぇ、ドアも窓もなくてどうしたの?」
「うん?」
「続き。さっきの」
「……あぁー、で、花屋に電話した」
「電話は通じたんだ」
「うん。それで、ヒマワリを注文しようとしたのに、フリージアしかないって。だから、また焦って、今度はペットショップに電話した。猫を買おうと思って」
「脈絡ないなぁ、桐藤の夢って」
「そうかな」
「そうだよ。なんでわたしが来ないからってソーダアイス買いに行かなきゃって焦るの?」
夢の中の桐藤を想像するとおかしくて、わたしは思わず笑い出す。
「好きなんじゃないの。ソーダアイス」
「うん。好きだよ」
「だったら、焦るだろ」
「どうして?」
「“だから”来ないんじゃないかって」
「ソーダアイスがないから?」
「そう」
「・・・・・・。ねぇ、もしかして桐藤の中のわたしって、とんでもなくワガママ?」
「そうじゃなくて。スイッチが多すぎるだけ。たくさんありすぎて、どれを押したらいいか分からねーの。だから、気が付いただけ押してみるのに、いつも足りない気がしてる。」
「足りないって、なにが?」
素朴に問いかけたわたしの言葉に、桐藤の答えは返らなかった。
「ねえ、なにが?」
それでも、追いかけるように問いを続けたわたしに、彼は微かに笑うと。
「ソーダアイス、買いに行かないと」
唐突にそう言って。まだ夢の中に足を踏み入れているようなおぼろげな様子で、ゆるゆると立ち上がった。
「――あぁ、そうだ」
そして、ふと思いついたように。
「ついでに、ヒマワリと猫も買ってこようか」
そんなことを、言った。
「え?」
戸惑ったわたしのことなどお構いなしに。彼は、どこか寒そうに右腕を摩りながら。なぜか、ずっと遠くにいるような。そんな距離感で、「好きって、言ってたよね」と。誰に確認するでもなく、言った。
「桐・・・・・・藤?」
フローリングの。冷たい床。まるで置いてきぼりにされたみたいに座り込んだまま。わたしは彼を見上げる。
声は、届いたのだろうか。長い前髪に隠れた伏し目がちの瞳が、じっとわたしを見つめ返した。
しん、と重なり合う視線から、そこはかとなく漂う桐藤の焦燥。一刻も早くそうしなければ、死んでしまうかのような。静やかな切迫。
白昼の空気の音が、現実感のない光に攪拌する。
世界が動きを止めたかのように、降り積もる静寂。
桐藤が、泣いてしまう。なぜか、そう思った瞬間。彼の、真っ黒な瞳のずっと深くから。哀しみにも似た寂しげな感情が、コトリ。と、落ちてきた気がした。
感触なんて、ある筈もないのに。手のひらに。哀しさの質感。
「ははっ、不安になった?」
その全部の痛みに触れそうになった直前。くって、唇の端で。不器用に笑うみたいにして桐藤が。一瞬にして全部をしまいこむのが分かった。
「冗談だよ」
しゃがみ込んで。なんでもないみたいな、口調。
あ。このヒト案外嘘が下手かもしれない。なんて。思いながら。
「……なんだ。ビックリした」
目の前に戻ってきた桐藤の顔を見つめて、まるで本当に何もなかった風に、そんなことが言えるだけだった。
桐藤が、そっと伸ばした両手をわたしの髪の中に
埋めた。その、柔らかく。慈しむみたいな動作が、ひどく心地よく。そして、あまりにも優しさに過ぎて。どうしようもなく、切なくなる。
「なにを、泣くの」
そう言って桐藤が、涙の溢れるわたしの目元に、ゆっくりと口付けを落とした。
君が、哀しいんだよ。そう答える代わりに、わたしはただ、瞳を閉じた。
ここは、怖いくらいに彼の、心の底に近い場所で。抱きしめても抱きしめて温まらない、桐藤の絶望が眠っている。
俺は、人の心が読める
らしいよ。だからね、俺は察しなきゃいけない。だから、さよならを言うのはいつも俺の役目。と、いつか、自虐するように言った彼の言葉が思い出された。
そういえば、わたしはあの時もソーダアイスを食べていて。とても。とても。とても。とても下手くそな慰めのセリフをたくさん頭に思い浮かべたけれど、結局、その全部の言葉を飲み込んで。それがまるで何でもない事のように。気の抜けた振りをして、桐藤に。好きだよ、と。何の脈絡もなく発したのだった。
気が付くことが、彼の必然で。当然で。だから。誰もが彼に押し付けていた。
綺麗な感情や、正しい感情しか持っていないなんて顔をして。お望み通りの言葉を発してみせた桐藤に、さも傷付いたような顔を向けるのだ。そんなことが。続いて。続いて。続いて。続いて。気が付けば桐藤は、人が近付けないずっと遠いところに心を置くようになっていて。わたしはどうしてかそのことにひどく慌てて。必死に、彼の腕を掴んでいたのだった。
きっともう、ぼろぼろに疲れていたはずなのに。彼は、わたしの姿をその瞳に留めてしまった。
なんの力もない。わたしなんかを。
あぁ、桐藤。本当は。
本当はわたし、君から逃げ出したくて仕方がなかった。
だってどうするの。ただがむしゃらに君の腕にしがみつけただけのわたしが。いつかもっと君を傷付けてしまったら。その絶望が、底なしになってしまったら。どうするの。
君は、どうするの。
「莉月(りつ)」
桐藤に名前を呼ばれれば。その気持ちの全部を見透かされたようで、身体が震えた。この一瞬の迷いが見つかってしまったらどうしようと、必死にその想いを胸の奥に押し込める。人の心が読めるなんて嘘。そんなことは分かっているのに。彼の瞳は、見つけてしまうような気がしていた。ほんのわずか。三秒後には修復してしまうような「いっそ別れてしまいたい」と思ったわたしの心の弱さを。
だから、わたしは。何も聞こえたりしないように。誰か、早くわたしの耳を切り落としてと。何度も。何度も願う。
彼の優しさが、わたしを手放したりしないように。何度も。何度も。
傍にいたい。
ただそれだけが。わたしの切実だった。
君さえいればなにもいらない、なんて。そんな陳腐みたいな言葉を口にしてみたら、ねぇ。桐藤は、笑うのかな。
両手でわたしの頭を包み込んだまま。桐藤の唇が、そっと耳元を通り過ぎて頬に落ちる。その、確かすぎる存在は、どうしようもないほどに指の先まで。全部に、伝う。熱。
「俺、そのうち見境無くすかも」
唇と唇が触れ合いそうな距離で、桐藤が笑った。
それはまるで。
柔く。心臓を掴まえられたような。
甘い甘い響き。
「受けて立ってあげる」
囁くように、わたしは言って。彼の首にそっと両腕を回すと、その唇に一瞬間だけ触れるようなキスをした。
軽くついばむような口づけは、やがて深く。深く。
想いを溶かし合うように。
わたしたちはただ、この白昼に溺れた。
Fin.