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深奏(フカク カナデ)

― 1 ―





 光も届かせないほど、じっと空気に澄まして。

 その音を、探している。







 自称『ニセモノ』の音をもらった。

 手渡された一枚のCD。女の子だから、ピンク。そういう、単純な選択を思わせる薄っぺらいディスクは、一見なんの味気もない。

 手渡されたそれは、重みすら感じさせないほどに頼りがなくて。

 長い指が離れた瞬間に感じた、ディスクのあまりの軽さが、そこに乗る感情の重みを忘れさせてしまった。

 中学三年生の、夏の終わり。

 掌に射し込んだ淡い想いを、簡単に零してしまっていた。


 そして巡った、大学一年の夏。記憶の底の音が、ゆっくりと目を覚まし始める。






 目の前に掲げられた写真を見て、一瞬ひたすら懐かしいような感慨にふける。

 それは、一年振りに見る顔で。カメラ目線、少し外して。彼は笑っていた。



「指名手配犯、捕まえる気ない?」

 玄関を開けて、耳に飛び込んだ一言目。

 隣に住む親友の桐原 壱佐(きりはら かずさ)は、時々唐突に意味不明の言葉を発する。

「え?」

 首を傾げたわたしに、彼はすっと右手に持った写真を見せて、事務的口調で続ける。

「桐原 宇龍(きりはら うりゅう)、二十五歳。マネージャーとのスケジュール合わせの時間を無駄に削りながら逃亡中。」

 首を横に振らせないというそこはかとない気迫を感じながら、写真に手を伸ばす。

「壱佐は?捜しに行かないの?」

「オレはこれからバンドがあるから無理」

「そっか」

「これが出現場所リスト。それじゃあ、健闘を祈る」

 メモ用紙を無理矢理にわたしの手に握らせて、壱佐は敬礼してみせる。肩にギターケースを担いで、颯爽と回れ右しようとする彼の腕を咄嗟に掴んだ。

「ちょっ、待って待って」

「なに?」

 勢いが削がれたような顔をして、壱佐が歩みを止める。

「え、わたし一人で捜すの?」

 縋るように壱佐を見上げて、頼りなげに声を出す。

 けれど、彼はわたしの不安な様子など微塵も気にすることなくはっきりと頷いた。

「そう。一人で、頑張って」

 一気に見放されて、途方に暮れたみたいにメモに視線を落とす。出現場所は実に十五箇所にものぼって。これを一人で回るのかと思うと、それだけで疲れてしまう。

「だって、事務所の人とかは?」

「弱小事務所だから、人が出張ってそんなとこまで手が回らないんだって」

「その、マネージャーさんは?」

「一人で何人もアーティスト抱えてんのに、兄貴一人に構ってらんないだろ?」

 不満にならない不満の声を、壱佐に簡単に押さえ込まれて思わず黙ってしまう。

「そういうわけで。走れ、真潤(まひる)捜査員」

 玄関の外を指差されて、夕日に向かって走るんだとでも言われているようなその言葉にため息をつく。

「ねぇ、これせめてもっと場所絞れないかな?」

 メモ用紙に書かれた場所が、全て三つ向こうの駅周辺ということは分かるのだけれど、その範囲はあまりに広い。

 目にしたことのないカフェの名前から、公園の木の上まで、先生の出現場所は実に様々なことが見て取れた。

 人間なんだから、ある意味当たり前のことなのだけれど。当たり前とも言い切れない場所がちらほら入っているのはどうしても解せない。

「兄貴の携帯繋がったら一発的中の場所が教えてやれたんだけどな。あいつ、携帯の電源切ってやがんだよ」

 なんの為の携帯だよ、と壱佐は声に怒りを含ませる。

 便利なものって、本当に必要なときに限って案外使えないものだ。

「つまり、全部回るしかないってこと?」

「そういうこと」

「もしかしたら、これ全部回ってもいない可能性があるよね?」

「そうだな」

 全く否定する素振りも見せないで簡単に肯定されて、思わず言葉を失くしてしまう。

 これだけの範囲を一人で走り回るのにただでさえ時間が掛かるのに。どうしろというのだろう。

「その場合は、どうしたらいいの?」

「後は真潤の勘だけが頼りだ」

「勘って……」

 三つ向こうの駅といえども、一年前に降りたのが最後。それ以来、一度も足を踏み入れていない。

 地図を見ても上手に目的地に辿り着けなかったりするわたしに、それは最悪に無謀なことだった。

 それを知っているくせに、壱佐はなんでもないことのように捜し回れと告げてくる。

 捜すのが嫌なのではなくて。変に迷うことの方が嫌だった。

 よく知りもしない場所で一人きりになることほど、心寂しいことはないような気がする。

 不安感だけを胸に抱えて渋っていると、壱佐がわたしの頭に手を乗せた。

「分かった。見事兄貴を捕まえた暁にはあいつにフォションのガトーショコラを奢らせよう」

 そして、それはもう偉い人みたいな顔付きをして、威厳に満ちたような頷き方をする。

「別にいいよ、そんなの」

「遠慮するなって。兄貴、金だけは持ってるから。ガトーショコラの一個や二個や三個や四個お安いもんだろ」

 頭に乗せられた手が、小さい子をあやすように軽く跳ねる。

 楽しそうな笑い声を滲ませている彼に、完全に遊ばれてしまっている気がした。

「兄貴はたぶん、会いたがってるよ」

 緩められた口元から、穏やかな言葉が発せられる。

 わたしは、少し乱れた髪の毛を手で直しながら壱佐を見上げた。

「なんで?」

「うん?なんとなく」

 満面の笑みで、根拠はないけどと言う壱佐に思わず呆れてしまう。

「そんないい加減言わなくてもちゃんと捜してくるよ。人いないなら仕方がないし」

「いい加減じゃないよ。兄貴の顔に書いてあった」

「嘘だよ」

「本当です。」

「……なんで?」

「なんとなく」

 ほら、やっぱり当てにならない。

 一年振りといっても、一昨年もそんなに交流があったわけではなくて。そう考えると、わたしと先生の間にはほぼ二年間のブランクがある。

 先生にとってのわたしも、わたしにとっての先生も、たぶんそんなにお互いなにかを気にするような間柄ではないから。いきなり先生がわたしに会いたいなんて、意味が分からない。

 繋ぐものなんて、たぶん一つしかなくて。

 ずっと深いところに潜った、あの音だけで。

 それだって、わたしがただただ大事にしているだけで、先生にとってはそうじゃないのかもしれない。

「先生とちゃんと会うの、二年振りくらいかも。しっかり話せるかな」

「あれ、そんなに会ってなかった?」

「うん。一昨年は五回も会ってないし。去年は一回も会わなかったし」

 ドアに頭を寄りかからせた壱佐が驚いた顔をして。もっと会ってるかと思ったと呟いた。

 先生は壱佐のお兄さんで。でも、一緒には暮らしていないからか、壱佐はそこのところはあまりよく知らないみたいだった。

 壱佐が隣の家に引っ越してきたのは、わたしたちが中学二年生の時で。それと同時に先生は一人暮らしを始めたのだと聞いたから。三つ隣の駅といえども、住む場所が違うと色々な所が離れ気味になってしまうのかもしれない。

 壱佐の家は、すごく仲がいいから。そういう話題が先生と壱佐の間で通っていない方に、わたしが驚いてしまった。

 けれど、わたしの話題なんていちいち兄弟で話すほどのそれではないと思うから。ただ単に話題に上らなかった、っていうのが一番頷ける気がした。

「そっか。まぁ、でも大丈夫だろ。兄貴にとっては一年も一日も同じだからさ。真潤に関しては」

 最後に付け足された壱佐の言葉に、思わず眉をひそめてしまう。すねたみたいな表情を作って、壱佐に軽い抗議をする。

「それって、わたしに全然成長が見られないってこと?」

「そうじゃないよ」

 壱佐は首を横に振ってそれを否定したけれど、顔が笑っていては全然効果がないことを分かっているのだろうか。

「とにかく、兄貴見つかったらすぐマネージャーさんに電話するよう言ってやって。出来たら、あいつがちゃんと家に帰るまで見張っててもらえると助かる」

「うん、分かった」

「悪いな、いきなり」

 壱佐はそれまで浮かべていた笑みを引っ込めて、本当にすまなさそうな顔で片手をごめんの形にした。

「ううん。暇してたし、大丈夫だよ」

「じゃあ、頼むな」

「バンドの練習、頑張ってね」

「本当、ごめんな」

 絶対兄貴にガトーショコラ奢らせるから。

 壱佐はその目に力強い光を宿して、まるでそれがものすごい使命か何かのようにして右手を握り締めた。

 だから、それはいいって。とまたもやわたしは苦笑しながら、バンドの練習に向かう壱佐の背中を見送った。

 家の戸締りをして、壁に掛かった鍵を手に取る。サンダルを足につっかけて、わたしは先生捜しに出掛けた。

 外に足を踏み出す一瞬、記憶の中に閉じ込めた音を引っ張り出す。

 彩られた底で、微かに響いていたあの音を。

 動き出す時計の針。

 感情が重なるように足を踏み出した。

 あまりにも静かに、それは刻みだす。

 たぶんこの時にはもう、その音は溢れ始めていた。
 



 


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