甲高い音をたてて、小さな黒い点が宙を飛んでいる。
 大きい、どこか無機質な印象を抱かせる瞳がそれをふらふらと追いかける。

「ああ、もう鬱陶しい!」

 視線のさらにその先で、青年が黒い点と格闘していた。
 青年が勢いをつけて、両手で点を叩き潰す。ばちん、と大きな音をたてて、甲高い 音は聞こえなくなった。


 *


「あれは蚊という昆虫だ」

 男は、少女の視線に対して静かに答えた。淡々とした声が暑い空気を涼やかに震 わせる。
 少女は無表情のまま首を傾けた。

「か?」
双翅そうし目カ科の昆虫を 、総称して蚊と呼ぶ」
「おと」
「蚊は飛ぶときに毎秒2000回以上はね

を動かすから、羽音の周波数が高いんだ」

 ぴくり、と少女の耳が動く。また、あの甲高い音が聞こえた。

「つぶすの?」
「蚊は普段、花や果物の蜜や樹液を食物にしているが、雌は産卵の為に人畜を刺 し吸血する。その際に皮膚感覚を麻痺させる為に唾液を注入するのだが、その唾液 がアレルギー反応をおこし痒みとなる」
「かゆい?」
「ああ。しかし、痒みだけならまだ無害と言っても構わないのだが、病原ウィルスや病原 虫なども唾液と一緒に注入してしまう場合があるから留意したほうがいいだろう」

 男の言葉を無表情に聞いていた少女の近くを、甲高い羽音が通り過ぎた。少女は 顔をあげ、空中を移動する黒い点を見つめる。
 黒い点は、壁にとまった。
 少女はそっと近付こうとするが、男が手でそれを制す。

「つぶさない?」
「手が汚れてしまうだろう。嬢が潰す必要はないさ」

 瞬く少女に、男は一瞬だけ目元を和らげて優しく諭した。
 そして、首を傾げた少女の頭を軽く撫ぜた。


 *


 ぱちん。と大きな音をたてて、青年が蚊を潰した。
 そして、少女の方を怪訝そうに振り返る。

「何?」
「つぶすの?」

 少年は怪訝そうに眉を顰めたが、少女の視線の先に自分の手があることに気付き、 嫌そうにその手を振った。

「なぁに、潰しちゃ駄目なわけ? 蚊って血ぃ吸うじゃん、吸われる前に潰さないと痒く なるのイヤだし」
「て、よごれる」
「あ、そっちか。でも、今更手が汚れるも何もないでしょ。洗えばいいんだし」

 ああ、でも。青年は甘く優しい笑みを浮かべる。
 そして笑わない目で少女に言った。

「キミがそこまでする必要はないんじゃない?」

 限り無く優しい声で、限り無い軽蔑と冷笑を込めて。青年は少女に言った。


 *


「か、つぶす?」

 唐突に少女に問われて、男は微笑んだまま首を傾げた。

「どうしてですか?」
「さされるから」
「刺されるだなんて物騒ですねぇ。貴方にそれを教えたのはあの二人ですか?」

 少女がこくりと頷く。男は微笑んだまま少女の手を包むように触れた。

「潰しませんよ」
「てがよごれるから?」
「いいえ」
「かゆくなるのに?」
「ええ。……蚊も、生きるために一生懸命なんですよ。虫としての生を全うするためには 、血を吸ってでも生きざるを得ないんです」
「つぶさないの?」
「ええ、出来る限り潰さない方がいいでしょう。蚊だって懸命に生きているのですから」

 少女がこくりと頷く。男は微笑んだまま良い子ですねと少女の頭を撫ぜた。
 「そろそろお勉強の時間でしょう? いってらっしゃい」という男の言葉にもう一度頷い て、少女はとてとてと部屋から出て行った。

 男はそれを見届けると、微笑んだままぽつりと呟いた。


「潰さずとも、虫を殺す方法などいくらでもありますし」





わざわざそんなことで走り回るなんて、無知とは滑稽ですね
06.08.31 // 残暑お見舞い申し上げます。登場人物は分かる人だけ分かって下さい。笑。
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