その日。教室で起きた騒ぎに、張本人である彼女は微動だにしなかった。表情一つ変えず、睫毛の一本すら動かさずに佇む。
 衝撃を受けて動くことができないというわけではなく、ただ静かに受けとめているようだった。

「言いたいこと、それだけ?」

 自分は彼女を知らない。
 しかし自分なら立ち直れないだろう。取り乱すだろう。怒り、相手を罵るかもしれない。悲しみ、狭く無関心な空間から逃げ出すかもしれない。

 彼女と、彼女の目の前で彼女を睥睨している女子生徒はいつも共に居た。彼女の隣にはいつもその女子がいて、その女子の隣にはいつも彼女がいた。
 昨日まで楽しそうに笑いあっていた。肩を抱き、机を向かい合わせ、笑っていた。どこのクラスにもいる普通の存在だった。
 今、女子生徒の隣には、別の人間がいる。彼女の隣には、彼女の短い影法師が落ちていた。

「…………あっそ」

 普通という関係は脆く危うい。
 そよ風のような些細な言葉で揺れ、塵のような負の感情が積もれば軋み、やがては崩れる。
 崩壊は天災のように激しかったり、中毒のように緩やかだったりするけれど、不可避であるという点では何も変わりはなかった。





「あのさ……言いたいことがあるなら言えば?」

 自分に向けられた言葉は自暴自棄な拒絶ではなかった。
 込められていた感情は特に親しくもないクラスメイトにじろじろと眺められたことへの不快感、だと思う。
 無言で彼女の隣に並んだ。 
 先程より背の高くなった影がアスファルトを黒く切り取っている。集団生活の場を離れ、制服を緩めた生徒が、自身の巣へ戻る為に駅へと向かう。
 それは紛れもない日常だった。

 自分から口を開く気はしなかった。
 彼女のことが気に掛かったが、心から心配しているわけでもない。野次馬根性のようで、白々しく「大丈夫?」と聞くのが躊躇われた。

「いい見世物だったでしょ」

 沈黙を守る自分に、彼女は皮肉っぽく口元を歪めた。
 あんな風に、中学生日記みたいな遣り取りをすることになるとは思わなかった。彼女は笑った。

 本音を話せる友人、だとか、将来を真剣に語れる仲間、だとか、そんな存在はいない。少なくとも自分には。
 相手に自分の詳細を知られることは弱みを握られることで、いつ罠にかかるか分からない。と、愚かな被害妄想に駆られている自分には、そんな存在はいるはずもない。
 彼女にとって、あの女子生徒はどうだったのだろう。あの女子生徒は、あの時何を思っていたのだろう。

 彼女は傷付いているようには見えなかった。こちらを向かず、ただ前を見つめている。

「……驚いてなかったよね」

 あの時の彼女の姿を思い出して、呟いた。それに対して彼女は何てこともないというように笑う。

「当たり前でしょ。世界に善人なんていないんだから」

 裏切られるのは当然だった。痛くも痒くもない。代用品ならいくらでもいる。
 隣を歩く彼女は、言った。

「あの子達のこと、嫌いだったの?」

 あの女子と、その隣に立つ別の女子生徒。

「ううん。別に悪い子達じゃないんだよ、みんな良い子」

 自分の隣を一人で歩く彼女は言った。
 傷付いた様子もなく、感傷に浸る様子もなくそう言った。

 彼女は強く見えた。彼女をかっこいいと思った。彼女を良い人間だと思った。
 そんな彼女を睥睨していたあの女子生徒の気持ちは分かるはずもなかったけれど、その隣に立っていた彼女は言った。みんな良い子だと。

「良い人間はいないけど、悪い人間もいないと思うんだ」

 なんてね、と言って彼女はまた笑った。
 その時の彼女は強く、かっこよく、良い人間だった。

 だから臆病な自分は、彼女と親しくはなりたくないと思った。
 強くかっこいい彼女を睥睨し、罵りたくはない。良い人間はいないが悪い人間もいない。ならば彼女が悪い人間になるのはいやだった。
 彼女がこれからも、強く、かっこよく、良い人間であって欲しいと思ったから。

 彼女は、じゃあね、と言って背を向けた。
 振り返らないその後姿が遠ざかる。その後姿は、まるで、



ただ美しいだけの世界。醜さを孕めばきっと愛おしくなる
( それでも美しいままであることを、望んだ )

06.08.31 // 一周年ありがとうございます。
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