泥だらけになりながら駆けた、狭い園庭。
 遊具と遊具に繋がれた糸にぶら下がる色とりどりの国旗。
 目の前で切られたゴールテープ。

 自分の数メートル先を跳ねて行くのは。
 俺の。








 のろのろと鞄に教科書を詰めた。あいつの視線が俺を急かす。
 急かすくらいなら先に行けと言いたいが、言ったところできっと、あいつは俺を待つのだろう。待つのだろう。
 今日この日ほど俺があいつを避けたくなる日はない。他愛の無い事を喋りつつ、下らない冗談に笑いながら、ちらりちらりと不安や夢を語るような、そんな日常の下校時間が恨めしい。
 教科書が引っかかって上手く入らないふりをするが、それもそう長くは続かない。鞄を肩にかけ、並んで教室を出た。待ち兼ねたかのように口を開くあいつの声。

「ね、どうだった? 最悪だと思ってたけど結構いけるもんだよね」
「はいはい、そーですか」
「自慢させてよ、他の人に言うと嫌味に聞こえそうだし」

 幼馴染なら何も感じないと思っているのだろうか、こいつは。俺にだって十分嫌味に聞こえるのに。
 良くも悪くも開放されて、帰宅部の生徒は嬉々として帰宅した。運動部の連中は既に校庭を駆けずり回っている。結果の良し悪しを気にしつつも、汗を流しながら練習する中ではそれを忘れているのだろう。
 少しだけ、羨ましいと思った。

「古典、良かったんだー」
「いくつだった?」

 僅かな希望をかけて尋ねる。

「一番だった」

 その満足げな笑顔に、クラスで? 学年で? と尋ねようとは思わなかった。

「どうだった?」
「何が?」
「古典だよ」
「……別に。普通だった」

 俺は、一番良かったその点数を口には出さなかった。俺が出来るなら皆だって出来るんだ、特にこいつは出来るに決まってる。馬鹿だ、俺。何を期待してたんだろう。
 黙々と歩く俺の傍ら。俺のその雰囲気に気付いてか気付かずか、べらべらと自分の結果を報告する。もし気付いているんだったらこいつは良い性格だ。笑顔の裏で俺を見下している。

「ノー勉強だったから駄目かなーって思ったんだけど、授業聞いてれば出来るもんだね」

 俺の自己弁論を潰さないで欲しいと切々と願う。
 勉強しなかった、っていうのは、悪かったときの言い訳だろ。何でそんなこと言うんだよ。まるで――俺とお前の間に、埋めようの無い才能の差があるみたいに。
 どんなに走っても、埋めようの無い差があるみたいに。

 下駄箱で深い皺の刻まれた革靴に履き替える。入学当初はまめに磨いていたそれも、最近は全然磨いていない。光沢は鈍い。

「あーあ……テスト一週間前がゲームの発売日に重なったからなー……」

 買っても居ないゲームを引き合いに出す自分が情けない。勉強しようとして、机に向かったのに、集中力が足りず、分からず、捗らず、前夜テストはいつも通りに終わった。

「それは努力できないっていう自分の欠点でしょ」

 案の定、鰾膠にべも無い返答。
 さっきまで、勉強しなかった勉強しなかった言ってたのに。何でこうも否定するんだろう。それとも、満足のいく結果じゃなかった? 嫌味?
 ぐるぐると腹の奥で燻る不満。

 目の前に置かれた夢は、自分の指のほんの十数センチ先にある。
 こいつはその遥か前方にいて、俺の目標なんてすぐにつかめてしまうのに。
 格が違う? 才能が違う? そんな言葉で、括られる。

「やらなかったから出来なかった、本当にやれば出来るんだ――出来ようが出来まいが、やらなかったってのは一緒でしょ?」

 不機嫌そうな声が、俺の心中に答えた。横を見れば、声と同様、先ほどとは違い不機嫌そうな顔が目に入る。
 気が付けば俺も相当顔を顰めていたらしい。
 何がこいつの気に障ったかは分からない。こいつと俺は結局違う人間だし、劣等生に優等生の感覚を理解しろという方が無茶な話だ。何を悩むかなんて知らない。

 校門を目指して歩きながら校庭を横切る。石灰の白いラインが眩しい夕空。肺を満たす空気は少し冷たい。
 野球部の一団が俺達の横を駆け抜けて、俺と同じクラスの奴等が汗まみれの顔に冷やかし笑いを浮かべながら去っていった。
 俺なんかとは比べるまでも無くしっかりした筋肉、体格。笑われたからと言って、追いかけて文句を言おうにも、きっと追いつけない。俺は運動が得意じゃないし、走りこみなんてやってない。

「実力がどうであれ、過去にそれを出来なかった事実は変わらない。“出来ない”と“やらない”は違うけど、“出来なかった”と“やらなかった”は同じだよ」
「……何、偉そうに。知ってるよそんくらい」
「知ってないよ、だって、出来ないんじゃなくてやらなかった、みたいな口調だったじゃん!」
「知ってる! 分かってるよ煩いな!」

 知ってるよ、そのくらい。
 あの日、自分の両親の見物する中で、顔も名前も覚えていない子供の白い背中がゴールテープを切った、その瞬間が、永遠であるように。
 出来なかったという事実は永遠に変わらない。

 口で言うだけ言って、お前に本当にそれが分かるのかよ。
 俺の前を走る奴等に、俺の気持ちなんて分かるはずがない。
 お前ら、俺達が何も考えてないとでも思ってるんだろ。

「知ってないよ、そういう言い逃ればっかしてる奴が負け犬になるんでしょ! あんたは都合の良い事例ばっかり見て、『こんなに駄目だった奴がこんなこと出来るなら俺だって』とでも思ってる! だから『自分は出来ないんじゃなくてやらなかった』って――」
「思ってねぇよ!」

 だけど、その後に続いた言葉は、

「絶対、自分は真面目にやれば出来る、って思ってるね! 真面目になんて出来ない癖に!」

 図星だった。

 目の前に置かれた夢は、自分の指のほんの十数センチ先にある。
 後ほんの少し腕を伸ばせば、いつだってそれを掴み取れる気がしていた。

 けれど本当は気付いていたんだ。少し手を伸ばせば届きそうな場所に見えていても、俺が一歩歩けば一歩遠のいてしまう事を。歩いても、歩いても、その距離が縮まらない事を。
 走っても走っても縮まらない距離を、全力で追うのが怖かった。全力で追いかけて掴めなかったらどうすればいいか、分からなかった。
 大丈夫、自分の目の前にそれはあるんだから。いつだって、やる気になれば出来るんだから。それ相応の実力が備わったら、それは簡単に手に入るんだから。

 ―――それは、いつ?

「いい加減、子供のままでいんの止めたらどうなのさ!」

 追いかけても追いかけても縮まらなかった距離が、どんどん離れていくのを感じてた。
 あの時走れば追いつけた。あの時頑張れば掴めた。あの時、あの時、あの時。
 それはきっとあの日の運動会。走る速度を緩めた日。

 本当は、俺にも出来るはずだった。
 どんなに頑張っても出来ない人達も居る中で。
 自分は出来たのに、やらなかった。

「うっせぇよ!」

 離れていく夢を少しでも止めようと振り下ろした手は空を切り。乾いた音と、じわじわと痺れるような痛みをもって、俺の目を覚まそうとした。





余裕なんてなくて、ただただがむしゃらに何かを追いかけている。
( それとも、逃げているの? )

06.03.12 // 私はどちらかと言うと「あいつ」の方の立場。
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